山城踏査日記Ⅳ

中世、近世を問わず全国のお城を訪ねています。神社仏閣、鉄道も好きです。

吉良邸跡

今日は12月14日。

今から352年前東京都墨田区本所松坂町にあった吉良邸に赤穂の浪人が討ち入った日です。

元禄赤穂事件です。

因みにこの事件のことを忠臣蔵ということもありますが、忠臣蔵というの事件から50年後に上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」から来ており、正しい言い方ではありません。

かつては吉良上野介義央は強欲で、正義感から賄賂を贈らなかった浅野内匠頭長矩が様々な意地悪をされて耐えに耐えたうえ江戸城の松の廊下で刃傷に及んだが、浅野内匠頭は即日切腹お家取り潰し、吉良氏はお咎めなしだったことに怒り、赤穂藩士47人が浅野内匠頭の討ち果たせなかった吉良氏を討った仇討ちとされていました。

しかし、最近では史料の研究が進み見直されてきています。

吉良上野介が悪で浅野内匠頭が善と言うステレオタイプは歌舞伎の演目としては面白いけど、史実は違っていました。

浅野内匠頭長矩はドラマや映画では20歳くらいの経験の少ない若殿の設定が多いのですが、実際には35歳。

分別盛りです。

しかも勅使饗応役は二度目なので様々なしきたりを知らないことはありません。

吉良上野介は勅使指南役であり、浅野内匠頭の饗応が失敗になれば上野介の責任となりそもそも意地悪をして教えないなんてことはありえません。

浅野内匠頭の性格は『栗崎道有記録』によれば癇癪持ちであったとしています。

また、『土芥寇讎記』には、「長矩、智有りて利発なり。家民の仕置きもよろしき故に、士も百姓も豊かなり。女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにと随いて、色能き婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄を貪り、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老の心に任す」とあります。 

 

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現在の吉良邸跡です。

小公園となっています。

当時はこの数十倍の大きさでした。

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吉良邸跡から少し離れた場所に吉良邸正門跡の看板がありました。

この看板と吉良邸の位置関係だけでも吉良邸の大きさがわかります。